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阿部 某

Abe Bow

from Setagaya to Everywhere

​Setagaya -Tokyo - Japan -  Outer space

"宇宙 日本 世田谷"から

阿部某 Abe Bowは旧名アベシンヤ

2021年現在22歳。

宅録で楽曲制作全般からミックスまで行っております。一応、MVも撮っておりますがそちらはかなり不慣れ(最近1眼レフと撮影機材を買ったばかり)。

ラジオが好きで高校時代から聴いております。コーネリアスのラジオは忘れない限り録音していますので欲しい方いらしたら(良いのかな権利として、youtubeにあるから大丈夫か)お送りします。

音楽もとても好きです。高校生時代はギターに凝っていまして、John Mayerを崇拝しビンテージギターを弾く日々を過ごしていました。。高校生活終焉にコーネリアスを好きになりサンプル版を集めたり、音楽制作のプラグインをほぼ同じにするように真似たものです。

というのも、コーネリアスを熱心に聴き始めたのは高校3年生の頃….

(ここから回想シーン)~~…

『Fantasma(96年)』(私が生まれる前の作品、私は98年生まれ)をまとめneverで90年代の名盤として知り、リマスターCDを買い聴いていました。「キッチュで今まで聴いていたものと違うなー」くらいの感想でした。

そんなある冬の日、私は環七のガゾリンスタンドでバイトをしていました。いつものように、トラックの窓ガラスを脚立に登り拭いていると、とても小さなイタリア車が1台入って来ました。「オーライ、オーライ」、私は誘導し「いらっしゃいませ、如何致しましょうか」と尋ねました。「ガソリン満タン、カードで」と熱のない蒼白い声で。

トラックを送り出し、スタンドに残った小さなイタリア車(水色だったかな?)にガソリン満タン。クレジットの署名をもらいに行きました。「トントン」、車のドアが開くとキノコ頭の中年の小柄な男性がサインをしました。「あれ、この人何か違う、かっこいい、なんだろう、このかっこよさ、僕の好きなやつだ、言語化できないこのセンスを浴びる感じ」ととても強い印象を受けました。

小山田。

クレジット控えを見て「小山田.......あー!コーネリアスだ!この人」と興奮しました。その時点ではあまり存じ上げてはいないのですが、「何か、今までと違う」感覚が鮮烈で、アイドルやタレントから受けるのとは圧倒的に違う”キッチュでなんかセンス良い感じ”がしました。Arto Lindsayのノイズギターを初めて聴いた興奮にとてもよく似ていました。感覚に対して、明確な言葉が見つからないので補足すると、”エスプリが効いた世田谷っぽい感じ”(これは伝わりにくさに拍車をかけていそう)。

スタンド社員に強い印象を受けたことを話しましたが、勿論スタンド社員は「誰それ?」と

(彼はB’zとガンズが好き)。


次の日、「point」,「sensuous」を下北沢のdiskunionで買い、みるみるはまっていきました。その年に出たMetafive、そのレコードも買い音楽の聴き方が135°(180°ではない)変わりました。その次の年の「Mellow Waves」、そのツアー、東京と地方3箇所、台湾と香港と韓国ツアーに行き..とにかくあらゆるコーネリアスの側面にハマりました。「sound and recording」 で載っていた小山田さんと美島さんが使っているプラグインを揃え、曲を作り始めました。

~~…(ここで回想シーン終了)

そして現在、私は「from Setagaya to Everywhere」というEPを出しました。上記と何も関係がない内容のEPかも知れませんが、僕は個人的に好きです、なぜなら”キッチュでなんかセンス良い感じ”がして。これはヌーベルバーグの映画に感銘を受ける感覚と近い。またもや感覚に対して、明確な言葉が見つからないので補足すると、

”エスプリが効いた世田谷っぽい感じ”です。

~「世田谷っぽさに」ついて~

「世田谷って緑な感じがして、なんか好き」これは小学生の私が地理(地域学習だったかな)の授業中に思った事である。今だにそのファジーな感覚を持ち合わせている。世田谷区は23区の中で最も面積が大きく、人口約92万人と東京都の1つの区でありながら、鳥取県よりも人口が多い。


世田谷区の中には高級住宅街がある。二子玉川や成城、ビートたけしも住む等々力である(自身で「等々力ベース」という番組を持っていた。勿論「世田谷ベース」は成城である)。かの小山田圭吾さんも世田谷区民(おそらく)。

しかし私が住んでいるのは下北沢近辺であり(次項に詳細)、とても庶民的でストリート感漂う地域である。世田谷区の中の下町といってもよい。そんな私のアナザースカイは…ではなく、そんな私の感じる世田谷っぽさは、肩肘貼らなくてよい感じがあるのだ。でもセンスの良い感じ。お笑いでいうと、さまぁ~ずである(三村さんは世田谷在住)。または、ふかわりょうと(世田谷在住、「5時に夢中」での発言から)。「そのままでいい」というナチュラルな感じが世田谷っぽさである(世田谷自然食品の物質的なナチュラル度ではなく)。おわかりいただけただろうか、~「世田谷っぽさに」ついて~と題名にしておいて、全く具体的かつ明瞭な概念が用意されていないのだ。小学生の頃のように「なんか緑っぽい感じ、無理してない感じ、でもカッコ悪くない感じ」といった”ふわふわ”のイメージが世田谷っぽさである。このイメージと概念をうまく言葉にできなかった。従って、私の生まれ育った地域のイメージをそのまま概念に投影したのだ、ただの主観主義にすぎない、しかし私には明瞭なイメージがある。

その世田谷っぽさが、『From Setagaya to Every where』に感じた。


~世田谷的田園に死す(田園調布は大田区です)~

上記と話題は変わりまして、より生活レベル、地域民族レベル(戦後風に言うと地域共同幻想かな?)のお話をします。

私は世田谷生まれ、世田谷育ち、『せたがやたがやせ(爆風スランプ)』の歌詞にもある世田谷の環七沿い育ちです(サンプラザ中野くんは世田谷地域FMで番組をやっていた)。1980年代には「なんでんかんでん」に代表される「環七ラーメン戦争」が起こったあの地域である。

世田谷の位置関係に詳しい人であればおおよその私の住所は判明したであろう(まあ、検索すればすぐわかります)。検索した方はそのまま地図を見て頂いて、そうでない方にお伝えすると、世田谷区の右端です。最寄駅は下北沢と胸を張りたいところですが、実際は新代田(井の頭線)


『下北沢によく行く!』と言う人は多いでしょう。私は行きません(基本的に)、少し苦手になってしまって。

下北沢という土地は家賃が安く、渋谷と新宿からのアクセスの良さ、サブカルイメージにより、地方から東京へ出てくる人が多く住む街です。その土地で彼らが、街を形成し更新する中で私の記憶の”下北沢”が崩壊の一途を辿ってします(たった22年しか知りませんが)。小学校の同級生の両親が経営していた老舗はチェーン展開している古着屋になり、初恋の人の見た目が恐い父親の店は閑散とし活気がなく、街を訪れると風景が常に更新されて行く、それに私が耐えられない。ノスタルジーというのか(ノスタルジーは元来病名でした。戦争兵士が故郷を思うあまり、戦闘に迎えない疾病)。ノスタルジーの更新と崩壊が忙しなく適応できないのである。

「なんだよペシミストぶって、おセンチかよ!ド阿保!」と心の中で呟く人もあるかもしれない。その通りである。

私の父親は下北沢の隣の駅=池ノ上が生家であり、母親も東京の人で此処には30年以上住んでいる。その二人はこの街の変化に全く関心がない。寧ろ喜んでいるのである。私のノスタルジー期は赤ちゃんのイヤイヤ期のようなもので、両親は遥か昔に乗り越えており、この街のメタモルフォーゼこそが真理であると感じているのであろう。そうでなければ、抗議運動を起こすはずである。そんな野暮な事はしないのである。

長年住んでいてもこの街の変化に抵抗がなく、変化こそが街だと無意識下で認識している人々、

両親をを心から尊敬する。貴方達がこの街の大人なんだと思う。

僕は今だに、髪の毛が虹色で地方では誰も受け入れなかった人たち、今だにロックンロールで革ジャン+リーゼントの人たち、ダボダボ古着にスケボーの若者たちが、何の違和感もなく受容されるこの街が地元である事が受け入れられない。「田園に死す」ほど生まれた地域にアイデンティティを見出せるなら良いではないかと呟き、

私の街にはアイデンティティがないと言ってしまう己に吐き気がする。

ただ生まれた地域にアイデンティティを見出そうとする、私の差別排他的特権意識に吐き気がして耐えられない。

サルトルの戯曲のように。

<以下、駄文。お時間に余裕のある方是非>

(と言うのも、理系大学在学で、文章の書き方なんてわからない。

文章なんて論文でしか書いたことない、勿論<Ctrl+C>と<Ctrl+V>中心で。)

アイドル、ヒップホップ、アニメ、ボカロ、バンド、性的容姿、ダンス

、クラブで踊れる、日々の疲れを癒してくれる、気分を高揚させれくれる..そんな大量消費される音楽”以外”を作って行きたいと思う。イケイケに対する退行か、現代社会のSNS時代の歪みか、でも退行好きっているよね!、私はそう。無意味に群れるより一人で作る方が自分らしく感じる、そういう音楽や映画も好き。そう、「結局、好みの問題だよね」と悟ったようにまとめる長女的意見に帰結するのである。退行が好き好きで仕方ない、意味不明が大好物である。

脱エンターテイメント、脱クリエーター(と言って元々そうでない)を目指し、ジョンケージの言う「感情を押しつけない音楽」、実存性がなく"ただ在る"唯物的音楽を目指しております。と言っても生まれてこの方、ポップミュージックやロックなど長年親しんでおりますので、基本的には構造内で前述を目指すのが今の指標。rockinの記者がよく使う「ポップの変異体、新時代の開拓者」などと”形容し難い時の褒めてんだか貶してんだか分からない”嘘くさい曲を作り続けていたいと思います。

『from Setagaya to Every where』7曲のEPを配信(サブスク)で発表致しました。今までに過去2年で2枚ほどEPを出しておりますが、今作の出来は過去作を遥かに凌ぐクウォリティです!(と言うのも過去2作はとても不出来ですので相対的に)と謙遜していましても、時代は自己主張の時代、SNSの時代です。「俺の音楽が全てだ!他を聴く必要は全くない!」とライトサイド的ファシズムを敷くことで一部のコミュニティにて評価され、資本も追従して行きます。しかしながら、そうはしたくない。ネットの時代、ネット世代、SNS世代の若者としてもその波には乗れない、陸サーファーにも慣れない人はいるものです。バブルの時代、好景気の時代でありましても全員がディスコに行き、アッシー、メッシーがいて今日は渋谷で5時でイタリアン🎵 (Oね!!)、なんて訳ではないでしょう。いつの時代にも日陰者はいる。(御隠居ではないですよ、落語じゃないんだから。)

アニメオタク、アイドルオタクのように日陰にいたが、時代が経て陽辺りが良くなり、向日葵のように大きく花を咲かせる集団もいますが、そうはなりたくない。日陰者でいたい。それに、どうも私はクールジャパン文化が苦手で。菊地成孔さんがエッセイで述べているように、同じくアニメもゲームもアイドルもほとんど消費したことがありません。「アニメはダサい、アイドル好きはオタク」など旧世代の新しい時代に対する抵抗や「そんなもの観るなら、自分磨きをしたほうが有意義」などのナルシズム自惚れ実業家のような考えを持っている訳ではありません。とにかく音楽と映画が好きで、本を読み、大学に行き、爆笑問題,伊集院光,細野晴臣のラジオは高一から欠かさず(受験期に一時停止)、コーネリアスに関しては何にでも読み聴き買い、高校時代は毎日diskunion(後にバイト)に通うような無駄なことしかしていない人間なのです<社会的青春目録に基づく(そんな物は無い)>。それって芸人の言う「尖っている、捻くれている」、そうかも知れないが現代社会の成り立ちで真っ当な人間と堕落した人間どちらでもない、社会の歪みとして自分がある感覚がある。<暗黙の社会一般人論に基づく>。陽を浴びる”為に”努力することにが虫酸が走る。”為に”に反射的拒絶をしてしまう。何故を知りたいのは何故でしょう。

レビ=ストローブスの『野生の思考』やエンゲルの資本論の考えに似た、「なぜ生まれただけで就学就労し、1日8時間は働き、資本獲得せねばならない。そうでない者は不出来、負け組、クソ人間、クズとされるのであろうか」この考えが根底にあり拭えない。『2001年宇宙の旅』で猿が”教育装置”モノリスに触らなければ、資本主義など無い困難のない人類の進化ではないだろうか、という”そもそも論”的退行が僕を支配する。「幸せが!豊かさが!」と

OLがタワマン併設のスタバで話すような構造にどっぷり浸かった欲望ではなく、

産業​革命(Fuck the industrial revolution!)

以降の社会の早すぎた資本民主主義(最大で半分が幸せ、半分が絶望で成り立つ、え?)で歪んだ社会の貧富などに

私たちは目を覆い隠して生きてはいないだろうか、という「なんか!世の中おかしいよね!世にも奇妙な感じだよね!」という私の拭いきれない疑問と主張である。

それに対して、積極的にアフリカに支援に出かける、ホームレスに対して配給をするなどしない、ただ時間に流されている人間でいいと思う=僕には行動は無理無理という退行がなぜか私の中で成立してしまう(理論を欠く)、だって辛すぎるもん現実は。現に社会の99.99…%が目を覆うというよりも、失明している、社会の歪みに打ちひしがれ、ただ生きている。そんな人間がアニメやアイドルやヒップホップなどの逃避(批判ではない)に走らず、ただ音がある意味のないことをしたい、意味のないユートピアに行きたい、意味のない快楽主義に走っているのである。「経済が一番の敵である」(またまたジョンケージ)、私も構造の最終的な敵は経済であると考える。

そしてなぜか、その逃避行的音楽を皆さんに聴いて欲しい(理論を欠く)。私の架空妄想コミューンに来てマズローの欲求階層にもある「所属と愛情、承認欲求」を小さなコミューンで満たしたい、これが今の僕にできる細やかな退行的抵抗だ。「で、結局なんなの?」と勿論思うだろうが、感情と主張を押し付けない空気の波と粒が合理主義を将来的に散らすことを陰ながら願う。

文章の読み直し、校閲をしていないので(しろ!)、

非常に読みにくいと想像できる、が読み返す精神的強度は持ち合わせていない。

御免!

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